名言
ひねもす走り果たせる者、夜の安きにつくことこそよけれ
明証的な直観と必然的な演繹以外には、真理の確実な認識へ向けて開かれた道は一つもない
もし邪悪になれる力がなかったら、善行の故に賞賛されるには値しない。そうでない善行は、たいていの場合、怠惰か意志の弱さのことでしかない。
死んだ者は、死んだ者だった。生きている者は、生きている者だった。
進まざる者は必ず退き 退かざる者は必ず進む
考えを言葉にするという空間をみんなで共有することで、言葉に深みが生れ、思考も育まれました。
業界初を目指しているのではない。業界最高を目指している。
紀州熊野はたえず闇の中にある
決して憎悪がないわけではありません。しかし、それを抑えて、嫌いになっていた自分の村をもう一度愛しなおす。ですから闘いなんです。憎み返さないというのは自分との闘いだ。
結果がすべてじゃないよ ただきっと 結果がすべてと信じて努力した過程がすべてだ
鎮魂の心、弔う心をもって写真を撮ってきた。 社会や歴史観、それが奥にないと、相手をどう撮ったらいいかわからない。 見えない部分を映し出すのが写真ですから。
短い詩型は一種の暗号で、短い形で、最大の拡がりを持とうとする
詩は真実のことを嘘のやうに言うものだ
永遠は哀愁の肉体であり、また心でもある もうじき野菊の花が咲き乱れる。力むことはなかろう。
伝統とは、受け継いだ遺産の上に、その時代の新しい息吹をつぎこんで、時代の要請に応え得るいとなみだ
空想と写実と合同して一種非🈳非実の大文学を製出せざるべからず
少し持ちこたへて、弾ける。その泡は私だ。
いちばん大切なことは、じょうずな俳句を作る方法はあるが、立派な俳句の作り方は教わりようがないということ。 それをみずからのこころの中に捜し求めているひと。そのひとが、俳句の秘密を知った人だ
凡そ歌人と云は、ただ情欲を離れ、心を空虚にもちて、いささかも執をとどめざらんことなり。されば歌人たらんは人は、花に対して花を見、月に望みては月をあはれみ、当一念一念の風景をあはれみて、二念ヲとどめざるべきなり。ただ歌人は、儚きを下とすべき…
四季はなほ定まれるついであり。死期はついでをまたず。死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり。人皆死あることを知りて、まつこと、しかも急ならざるに、覚えずして来る、沖の干潟の遥かなれども、磯より潮の満つるが如し
風土というものは、人間のあるかぎり、歴史的な時間性がかかわってあるものだ。私にとって、風土は人間の生成する地盤のあらゆるものを指したい。 俳句も風土や歴史を除外しては考えられない。 歴史的な、人間的な地盤の絡み合う風土が詠われてもよいと思う…
(造形美とは)すべてそういう類の生命感をそれぞれの技術によって得ようとすることである。
ディレッタンティズムの時代は過ぎた。今や野獣の生きるべき時代である。
俳句をつくるときはまづ俳人にならなくては駄目なのだといふ。俳人になるといふのは、完成を目指して俳句をつくる詩人になるといふことであります。 象徴ではなく「もの」の生命感をつかまへようとしてゐる。
今日の風景俳句とは、畢竟感性的なリアリズムの上に立ち、浪漫詩的精神の場に繋るものであらねばならない。
「寓意」は常識的であり、「象徴」は非常識である。 俳句の「滑稽」は往々「寓意」の常識性の場を指して居る。が「象徴」はむしろ「痛苦」であり、間隙を辞さぬ烈しい応射である 「寓意」は妥協的であり、「象徴」はむしろ拒否的でさへある。 象徴は間接的な…
俳人としての人格完成とは、具体的に云ふならば、俳句を通して世に処し、俳句のために生きるといふことである 根源を追ひつめること俳人の生活なのである。さうして高まってゆくのが俳人格といふものなのである。我々には俳句の場として以外の生活はないはず…
姉は姉、妹は妹、世上の人は世上の人、皆それぞれの運命がある。運命に安んずるか、安んじないかだ。安んずるとは、境遇から来る幸福を意識することだ。(要約)
完全に美しい景を完全に美しく詠む修行は必ずなさねばならぬことだ(俳句とエッセイs48.6)
美は感動を孕む沈黙である (「沈黙の詩型」より)