愛ね、暗いね。

あるいは小さな夜の曲

私と俳句

「私と俳句」という題を頂いた。春郎前主宰のような軽妙な随筆は到底書けないが、ささやかな自己紹介を書いてみる。

思い返せば幼い頃から活字中毒であった。幼稚園か小学校に入る頃、留守番の間、辞書を読んでいたことがあった。かえって親に心配された。

高校も半ばからは文学作品に夢中。大学は法学部に進んだが、年間百冊程度、西洋の古典を中心に読んだ。戯曲・演劇や西洋文学史については、今なお一家言を持っている。

 その後運と縁が重なって司法試験に合格。修習(法曹になる研修)は京都に配属された。修習そっちのけで毎週のように寺社仏閣をめぐり、日本の伝統の奥深さに魅了された。

 修習も終りの頃、試験勉強に嫌気がさして、ふと図書館で藤田湘子『二十週俳句入門』を手に取った。これが契機だった。韻文としての俳句を推す姿勢に深く共鳴し、同書に従って実作を始めた。

皆様ご存じのように、作句を始めると誰かの評を仰ぎたくなる。栃木に戻ったのち、湘子の師系を辿り、その抒情性に感銘を受け「馬醉木」の門を叩いた。「馬醉木」では根岸善雄先生に一から鍛えて頂いた。最初の句会では、ほとんど点が入らなかった。だが、根岸先生の自然詠の静謐な抒情、韻文としての格調の高さに「馬醉木」に学んでいくことを秘かに決意したものであった(先生は去る一月十六日に長逝された。心から冥福をお祈り致します。)。

ほどなく「馬醉木集」への投句の他に、「あしかび抄」への投句、また「新樹賞」への応募を始めた。特に、コンクールへの応募によって実作の力と選句の力を育んで頂いたように思う。

また初学の頃から気に入った句は書き起こしている。毎月の「馬醉木」は楽しみだ。歳時記は季節がめぐる度に繰り返し読む。

持論だが、俳句はある意味で法律に似ている。季語は法律ならば条文だ。すべての出発点である。歳時記はその解説書。また先人の例句は裁判例に近い。そしていくら学んでも、思うことを十七字で人に伝えることは難しい。だからこそ誰かとわかりあえた瞬間の楽しさはかけがえが無いものだと思う。

また山本健吉『現代俳句』は俳句評論への目を見開いてくれた。俳句の魅力を余すことなく伝えてくれる必読の書ではないかと思う。

さらに感染症拡大に伴い句会が減ってからは、万葉集から日本の詩歌を自分なりに咀嚼してきた。上代から連綿と続く詩歌の歴史の中に「馬醉木」もある。次の百年に向かって微力ではあるが、主宰をお支えして、一つ一つ恩を返していきたいと思うこの頃である。