愛ね、暗いね。

あるいは小さな夜の曲

クロノスの舌 富沢赤黄男 薔薇 s28.1〜

「寓意」は常識的であり、「象徴」は非常識である。

俳句の「滑稽」は往々「寓意」の常識性の場を指して居る。が「象徴」はむしろ「痛苦」であり、間隙を辞さぬ烈しい応射である

「寓意」は妥協的であり、「象徴」はむしろ拒否的でさへある。

象徴は間接的なものではなく、より厳しく直接的なものである。蝶はまさに蝶であるが、その蝶ではない。

詩の言葉はつねに垂直に息づいて居るものである

形式は墓標である

詩は完成を希求ひながら、しかも、みづから完成を拒否し続ける。ーこの根源的な矛盾が、われわれを詩に赴かしめる。

詩には結論といふものはない。必然の過程だけがある。

純粋とは意味を峻拒したものが、そこから新しい意味を創り出すもののすがたであらう。

詩人は自己の詩によって、自己の限界を超えようとする悲願の中に生きるほかない。

詩の書かれない部分が背負っている重量を思う。

 

季感ー必ずしもそれは詩感ではない

 

詩は本質的に曖昧なものである。

表現とは、力学的な自我廻転である。

物を掘り下げてゆくこと、それは物と物の関係を掘り下げることにほかならない。

物と物との関係の追究は、つひに事の追究にほかならない。

詩はあつたものを踏まへて、あるべきものに立ち向かふ。即ちリゴリズムは、この可能への烈しい意志としての厳しい詩人の態度にほかならぬ。

批評家は結末をつけない。

結末をつけるのはつねに作家自身である。

詩における社会性。それは原因においてでなく、結果においてである。原因におけるそれは理性であつて、詩性ではない。

根源論も俳人論も、無季俳句論、社会性論議も、僕には無用である。僕はただ、ひとりの人間が、憤りの果てから、虚妄の座から、涙を通し、哀歓を越えて、つひにひろびろと大気の中で思い切り呼吸することが出きればと、それのみを悲願するだけだ。

私は俳人を信じない。だからこそ期待する。