愛ね、暗いね。

あるいは小さな夜の曲

片岡真伊『日本の小説の翻訳にまつわる特異な問題』(中央公論新社、2024年)を読む

ぐいぐいと読まされた。もともと好きな小説ばかりであったというのは、私の場合、大きいかもしれない。

・優れた総論が置かれていて、これから始まる各論が素晴らしいものであることを予感させる。問題提起が素晴らしいということは、問題の把握が十分なる思索と検証の果てになされたことであることを理解させるからだろう。

・一次資料を丹念に探求したこと、その偶然の出会いとの悦びが伝わる。膨大な資料であったはずだが、おそらく苦痛ではなく、その予期せぬ邂逅はきっと著者にとって楽しかったのだと思う。またその実証性。活用の方法が説得的である。

マーケティング・リサーチ業に従事したことにより、単なるテクスト間の比較ではなく、社会科学的な観点から、翻訳に際し多角的な力学が生じることを実感しており、それらの観点からの検証がなされている。

・そもそも翻訳文学という分野そのものが、手つかずに近く、手垢がついていないのではないか。分野としての期待が大きい。シェイクスピア芭蕉であれば、先行研究を追うだけで半生を要しそうである。

 

興味を持たれた方のために、総論部分を幾つか引用しておく。

 

 

・テキサス大学オースティン校のハリー・ランソム・センターのクノップフ社のアーカイブズが一次資料になっている。

日本の小説を英語圏に移すにあたり、言語や文学規範の根本的な違いや、文化的な距たりを文化の仲介者たちがどのように跨ごうとしていたのか、その「あいだ」の実相を明らかにすることに注力した。

資料群を手がかりに、翻訳・出版の過程における改変や調整に光をあて、その変容の根本的な理由を問う研究は、本書が初の試み。

翻訳・出版過程において、いったい「何が」変更や改変を強い、駆り立てたのかを解明することであり、当時の文化の仲介者たちさえも掴み得なかった翻訳問題や葛藤の根源を探ることに重きを置いている。

さらに、移植先の読者にどう受け止められたのか、英訳がたどりついた先々で、人々にどのようなインスピレーションを与えていたのか。アメリカやイギリスの読者たちは、日本の文学のどのような部分に魅力を感じ、また拒絶反応を覚えたのだろうか。そして、これらの文学が英訳されたことにより、どのような新たな可能性が切り拓かれたのだろうか。

言い換えれば、人が自己とは異なるもの(他者)のどのような側面に興味を抱き、触発されるのか、異文化接触のダイナミズムそのものを、より深く理解することにつながるのではないだろうか。

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従来の日本文学の英訳に関する研究というと、翻訳者とテクストとの関係性に着目し、原文と訳文とのあいだに生じる落差は、あたかも翻訳者の手によるものであるかのように語られる場合が多く見受けられる。だが実際には、訳文は複数の工程を経て生成され、さらに其の過程には、翻訳者のみならず編集者、そして出版社内外のスタッフなど、多数の人的要素が加わる。そのうえ、翻訳当時の原稿作成・複写方法に関わる技術的・経済的要素などの環境要因など、さまざまな力学が絡んでいた。

では、その翻訳・編集・出版過程において、彼らは、日本語圏と英語圏との言語間や文学規範、そしてその根底にある文化的差異を、どのように乗り越えていたのか。

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そのような時代になされた英訳であったからこそ、史料に深く刻まれた翻訳者たちの葛藤、そして受容先の読者たちの違和感の痕跡を痛切にかつありありと読み取ることが出来た。そして、その翻訳過程には、原文を英語に移す際の回避しがたい、英語、並びに文章作法の許容限界に加え、移植先の読者の拒否反応の引き金にならない程度の異質性とはどの程度であるか、あるいはその異質性をどの程度尊重すべきかという、「違和感」と「異質性」との狭間を往き来する文化の架橋者たちの判断が絡んでいた。

小説を翻訳するとは、言語と言語、文化と文化、小説とノヴェルをも含む、様々な「あいだ」でのせめぎ合いを通じて訳文を練り上げることを意味する。さらに、そのせめぎあいでなされる判断には、各文化圏における「現実感」の在り方の違いや、作為的・無作為的なものがどこまで求められ、許容されるかなどの比較文化論までもがかかわってくる。

翻訳を通して異質性に触れた者が、その差異に戸惑いつつも自身の偏狭さや限界を乗り越えるための刺激・触発源をそこに見出すという、かつて(そして今なお)著者自身が経験しつつある異文化接触の過程、そして、アンガス・ウィルソンが夢想したように、翻訳を通して伝わる「模倣でも、標準化された国際性でもなく、根本的な差異の豊かさやインスピレーション」が拓く可能性そのものが、ここに浮上してきたと言えるのではないだろうか。

*本著は著者より寄贈を受けました。記して感謝致します。