風土というものは、人間のあるかぎり、歴史的な時間性がかかわってあるものだ。私にとって、風土は人間の生成する地盤のあらゆるものを指したい。
俳句も風土や歴史を除外しては考えられない。
歴史的な、人間的な地盤の絡み合う風土が詠われてもよいと思う。俳句の形態に即して歴史的な時間性を収縮して形象すれば、風土が空間的に時間的に有機的な働きを持ってくるはず。
「風土」とは、その土地にすみついた作家たち(特に地方俳人)がその土地土地の風物をもっと作者のみに惹きつけて生きた現実として捉えること
俳句は認識の詩である。風土が、自らの中でどのように再現されたかが問題。
風土を歴史的に捉えるといふのは、人間の悲願であると言って良い。俳句の取材旅行が非難されるのは、多くは現象描写に止まって人間悲願の陰影を描き得ない場合なのではないか。
私の心の中にはつねに山河が住んでいる。