詩
ときじくの かぐの木の実の花の香り立つ わがふるさとの 春と夏のあいだに もうひとつの季節がある
考えを言葉にするという空間をみんなで共有することで、言葉に深みが生れ、思考も育まれました。
旗のごとなびく冬日をふと見たり 高浜虚子 庭に佇んで居たときのことである。大空には冬日が小さく固くかかっていた。 風もなかった。 音もなかった。 鳥も飛ばなかった。 人も居なかった。 私が頭をめぐらした瞬間に今まで小さかつた冬日が大きな旗のごとく…
詩は真実のことを嘘のやうに言うものだ
草の実の ころがる 水たまりに うつる 枯れ茎のまがり 淋しき人の去る
少し持ちこたへて、弾ける。その泡は私だ。
凡そ歌人と云は、ただ情欲を離れ、心を空虚にもちて、いささかも執をとどめざらんことなり。されば歌人たらんは人は、花に対して花を見、月に望みては月をあはれみ、当一念一念の風景をあはれみて、二念ヲとどめざるべきなり。ただ歌人は、儚きを下とすべき…
社会性は「素材」なりとする意見は、社会的事象が意識的に素材として採り上げられる、その現象面のみをみたもので、根本を見ていない。ただ、この意見から教えられるのは、そざいとしてのみ扱う者に対する警告としての意味である。感動がないから、スローガ…
俳句をつくるときはまづ俳人にならなくては駄目なのだといふ。俳人になるといふのは、完成を目指して俳句をつくる詩人になるといふことであります。 象徴ではなく「もの」の生命感をつかまへようとしてゐる。
今日の風景俳句とは、畢竟感性的なリアリズムの上に立ち、浪漫詩的精神の場に繋るものであらねばならない。
「寓意」は常識的であり、「象徴」は非常識である。 俳句の「滑稽」は往々「寓意」の常識性の場を指して居る。が「象徴」はむしろ「痛苦」であり、間隙を辞さぬ烈しい応射である 「寓意」は妥協的であり、「象徴」はむしろ拒否的でさへある。 象徴は間接的な…
美は感動を孕む沈黙である (「沈黙の詩型」より)
詩は志のゆくところである
八月は祈祷、魚鳥遠くに消え去り、桔梗いろおとろへ、しだいにおとろへ、わが心いたくおとろへ、悲しみ樹蔭をいでず、手に聖書は銀となる。
わが性のせんちめんたる、あまたある手をかなしむ、手はつねに頭上にをどり、また胸にひかりさびしみしが、しだいに夏おとろへ、かへれば燕はや巣を立ち、おほ麦はつめたくひやさる。ああ、都をわすれ、われすでに胡弓を弾かず、手ははがねとなり、いんさん…
見る所花にあらずといふことなし、思ふ所月にあらずといふことなし
詩は静思のうちに回想された情緒である
詩は状況である
別のところでみる夢-丸田洋渡試論 - アオマツブログ (hatenablog.com) 面白い試論だった。俳句における新人賞の扱いはどうなのか? 生活感が顕わな作品は飽和状態で,受賞を逃す傾向にあるとまでは言い過ぎか。 夢的なものは,わからない,理解を拒絶している…
安多多羅山の山の上に 毎日出ている青い空が 智恵子のほんとうの空だといふ
帰りの遅い父の食卓にあった缶ビール。そこから拝借する形で飲んでいた母の赤い頬。大人はどうしてこれが美味しいのかと不思議だった、親戚だらけの大晦日。コンビニで気軽に酒を買う先輩をやけに大人に感じた上京後の春。独特の苦味を初めて美味しいと感じ…
風とひのきのひるすぎに 小田中はのびあがり あらんかぎりの手をのばし 灰いろのゴムのまり、光の標本を 受けかねてぽろつと落とす
平和の春 踏切がまわる 平和の夏 火山が噴き出す
小さい虹を見ることから、娘のきれいなひそかなところが目にうかんできて追い払えなかった。それを江口は金沢の川沿いの宿で見た。粉雪の降る夜であった。若い江口はきれいさに息を吞み涙が出るほど打たれたものであった。ひそかなところのきれいさがその娘…
道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。
国破れてこのかた、一入木枯にさらされる僕の骨は、君という支えさえ奪われて、寒天に砕けるようである
われわれはまさに我々が愛している人間についてこそ、かれがどんな人間かを言うことはできない。われわれはただ、彼を愛するだけである。そしてまさにこの点にこそ、愛が、愛の驚異があるのだ、愛が我々を生あるもののなかに漂わせておく点にこそ
ダンディとは、生き方の美学を宗教にも似た信仰へと高めるもののこと
時計の針が前にすすむと「時間」になります 後にすすむと「思い出」になります
春の岬旅のをはりの鷗どり浮きつつ遠くなりにけるかも 「山なみとほに」 山なみとほに春はきて こぶしの花は天井に 雲はかなたにかへれども かへるべしらに越ゆる路